1988年、その前の年に旧ソ連時代、今はウクライナ領になりますが、チェルノブイリ原発で過酷事故が発生し世界中を震撼させました。いまから36年前の事になりますので、今では当時の状況を知らない人たちも増えましたが、私たちにとっては忘れらない事件です。
いのちの祭りを始めた人々は、実に様々な仕事や暮らしを送る全国各地の人々でした。
都会で人気雑誌を作る人たち、世界的に有名な芸術家もいれば、田舎に引っ込み自然を相手に暮らすお百姓さん、洒落たレストランの経営者もいれば、大工仕事に勤しむ人も。遊び人もいれば、子育てに全精力を注ぐお父さんお母さんも。要するに普通の日本人の一部でありました。
ただ一つ共通していたのは、この地球が平和で愛に満ちた世界である事を願う気持ち、核兵器や核の平和利用が、いずれ大きな問題になるだろう事を以前より予想し、それが現実になってしまった事を憂い、声を上げなくてはならないと決意するに至った事にあります。
まだようやくインターネットが実用化へ向かう時代で、スマホどころか携帯すら滅多に見ないこの頃に、呼びかけは口から口へと伝わり、やがて全国に広がり、ついに八千人もの人々が、ある者は快適な乗用車を駆り、またある者はオンボロの軽トラックで、中には畑で飼っているヤギまでつれて集まってきました。
その時この祭りの実行の原動力になった人たちの中で目立ったのは、普段街では見かけない、ヒッピーと呼ばれたり、自らをヒッピーと呼ぶ人たちでした。
第二次世界対戦が原爆投下によって終わり、新しい繁栄の時代を迎えたアメリカで、伝統的な価値観に疑問を投げかけ、否定し、破壊と創造の原点になったのが、ビートニクと呼ばれた文芸運動でした。(ケルアックやバローズの名を知ってる人も多いと思います)
ビートニクの思想はやがて、アメリカの伝統的な生活感とは全く異なる暮らしを選ぶ、ヒッピーという人たちを産みました。ヒッピーとは黒人言葉でHIP(そうヒップホップのヒップです)と言う言葉が語源です。
HIPと言う黒人言葉には、イカした(COOL! ) あるいは気づいてる、解っていると言う意味合いもあります。そうしたイメージをお尻を意味する、HIPいう言葉に乗せたのは黒人達のユーモアでしょう。その言葉に象徴される、大人たちには騙されない(解ってるんだぜ!)気づいてる連中という意味で、ヒッピーと呼ばれた彼らでした。
時代は、ベトナム戦争が徐々にエスカレートして行き、最初はフランスとベトナム民族主義者のつば競り合いにはじまったベトナム戦争は、60年代後半にはアメリカ軍産複合体を巻き込む巨大な戦役に拡大し、アメリカの若者たちは嫌々戦場に飲み込まれていった時代で、それはまた反戦運動の時代でもありました。
現在のウクライナ戦争と同等以上の悲惨な戦争が東南アジアで始まり、やがて日本もアメリカに基地を提供する立場として関わっていった時代です。その時期青年であった私たちの世代は、何らかの形で反戦運動に触れる機会がありました。
このような時代背景において、反体制運動でも武力革命でもなく、自らを社会から分離した存在として生き抜く事を目指したのがヒッピー達でした。それは社会の雑然とした規則や馴れ合いや収奪や支配から距離をおき、勝負や競争、優劣の世界へと向かう列車から途中下車して、田舎道を自分の足で歩いてゆく事を選んだ人たちの生き方でありました。
考え方によっては、自分達だけで理想世界に生きると言う意味では、利己主義的であると捉えられる部分もあったと思います、しかしながら社会から距離を持ち、ある意味こぼれ落ちた立場で生きてゆくのは、とても勇気と努力が必要であります。雑草のような生命力がなければ生き抜くことも叶いません。
長い時間をかけて彼らは地に足をつけ、子供を産み育て地域にも認められる存在として暮らしていました。しかしそのままでは済まない事態がおきてしまいました。地球の裏側と言っても良い場所で原発が燃え上がったのです。汚染物質は高く舞い上がり風に乗って広がって行きます。
大きな危機感が彼らを捉えました、同時に多くの普通の人たちさえも危険に気が付き、黙ってはいられなくなりました。そしてNO NUKES ONE LOVEの掛け声の下に八ヶ岳を対面に見る入笠山の麓、富士見高原に集まったのでした。
つづく
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