88の祭りのあとに続き91年の六ヶ所村まで、毎年いのちの祭りが各地で開かれていました。89年には島根県最南端の柿木村、90年には鳥取県大山、91年には青森県六カ所村へと続きましたが、その後規模が縮小された形になり、徐々に地域化が進んで行きました。
そのあたりの経緯を、当時の祭りに欠かせない人物であり、日本のヒッピーの草分け的な存在でもあった山田塊也氏、またの名をお祭りポンちゃんと言う人の言葉で語ってもらいましょう。(謝、名前のない新聞)
この名前のない新聞は、一貫して日本のオルタナティブカルチャーの当事者からの視点で、夥しい量の記事を発表してきたインディペンデントメディアの代表的存在です。時間のある時に読んでみると、一般メディアでは出会う事のない情報に触れる事が出来る、第一級のアーカイブと思います。興味のある方は是非一読をお勧めします。
こうしてお祭りが地域に根を生やし、多様化し、一般化しつつも、バブルに浮かれた社会からは潜伏してゆく時代が続きます。その頃音楽シーンには新たに強力なアンダーグランドミュージックが生まれていました。ポストパンクの英国でテクノミュージックをエンドレスにプレイするダンスミュージックシーンです。当時それはRAVE PARTYと呼ばれていました。
それはアメリカのゲイカルチャーに端を発するハウスミュージックの流れと、YMOに代表される日本発祥のテクノミュージックがドイツを経由してイギリスに達した時、特殊なユースカルチャーとしてRAVEシーンが突如現れたのです。それは反復するビートの演奏を禁止する法律がイギリスにできてしまうほどのインパクトを持っていたのです。
当時はGrateful Deadに代表されるサイケデリックロックを中心に、JAZZやポップスまで仕事としていた私は、法律で禁止されたと言う音楽にとても興味を持ちました。日本でも戦争中一部の音楽は禁止されていましたが、それは国家が戦争をしているから禁止になった訳で、音楽があまりに流行りすぎて禁止されたのとは大きく意味が違います。平時の民主国家で特定の音楽を禁止する事僕には初耳でした。
私はとても興味がわき、イギリスから多数のアーティストが逃げて行った、サンフランシスコまで出かけてRAVEを初体験し、これが新しいムーブメントになると確信して帰国しました。そして94年秋に長野の美麻村にある大町スキー場で、本格的な野外RAVEを始め、今も続けています。その後ゴアトランスが圧倒的人気で主流になって行きましたが、様々なジャンルでのパーティーは現在も続けています。
2000年の時はRAVE PARTYと祭りを合体させようと働きかけました。しかしオーガニックな音楽が主流である祭りには当時なかなか受け入れられず、実現に苦労した思い出があります。リンクの資料を読むと当時パソコンやネットが、まだ完全には受け入れられてなかった事がよく分かり、興味深いです。
やがて2000年を迎えようとする時に、私はいのちの祭りの仲間から2000年にかつての様な、全国から集まれるいのちの祭りをやろうとしているから、参加する様に言われました。会場を視察に行ったものの後から会場側に断られたりして、いろんな意見が出て一時は開催中止になりそうだった時に、美麻村に住む友人の骨折りで、鹿島槍スキー場が使えることになり、2000年のいのちの祭りは、無事開催される事になりました。当時のレポートはこちらです。
いのちの祭り2000映像・ダイジェスト版
いのちの祭り2000虹の村レポート
いのちの祭り2000公式レポート(リンク切れ多数です。ごめんなさい)
祭りに寄せて(サワの寄稿文)
祭りに寄せて(ポンの寄稿文)
つづく
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